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明日の夜は千の眼を持つ (ビームコミックス)
「夜は千の眼を持つ」シリーズ第三作。妻を亡くした後の自身の喪失感を描いた「さよならもいわずに」も凄いと感じたが、やっぱりウケケンはギャグマンガ家だ。
「コミックビーム」06年8月号から10年12月号までの掲載分が収録されている。
ただし、「さよならもいわずに」「帽子男シリーズ」の連載により09年8月から10年5月までは休載。
連載再開後の第一作が「さよならもいわずに」ネタ。やらずにはいられなかったんだろうと思う。
詰め込まれている情報量や描き始めるまでの下調べの時間を考えると、作者のいうとおり本当に「不経済なマンガ」だ。深読みすれば何かの風刺になっているような作品もあるが、ほとんどが無意味でバカバカしい笑いだ。
その不経済の極みともいえるのが「模写シリーズ」のような気がする。
本作にも「一休さんのとんちシリーズ」、「他マンガ家の作品の模写でなにか(例えば、あ、い、うとか1,2,3〜とか)をカウントしてしまう〈RHYTHMシリーズ〉」など多くが掲載されている。
このRHYTHMシリーズの中に「ゴルゴ13」ネタがあるのだが、オチの見えないかたちでカウント?が進んでいく、どうするのかなぁと思ったところの最後の一コマ。なんだかおかしくて仕方がなかった。
マンガに限らずお笑いの中で最も難しいのがこういった無意味でバカバカしい笑いだと思う。例えば、芸人であれば一発ネタで、ギャグマンガ家であれば一作だけもの凄いインパクトを持つ人達は多くいるが、その多くは短命だ。瞬間的な爆発力はあるが持続しないのである。笑いを商売とする人は、何もないところから、身を削りながら、脂汗を流しながらギャグマンガを描いているのだから、それも当然だと思う。
そう考えると、それを半世紀以上も続けるということができ、かつネタが尽きない上野顕太郎というマンガ家は凄いと思う。才能もあるだろうが、それ以上に努力家であり、描くのも読むのも両方だが、心の底からギャグマンガが好きなのだと思う。求道者だ。
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さよならもいわずに (ビームコミックス)
ギャグマンガを描く作家の多くは活動期間が短い。インパクトのある作品を描いた作家ほどそうだ。当たり前だと思う。ギャグマンガ家は、その才能を削るように作品を描くからだ。ギャグマンガ家として生き残っていくのは本当に大変だ。
そのような中、執筆歴が四半世紀を越す上野顕太郎がいまだギャグマンガ家として第一線で活動できるのは、きっと彼が、四六時中、ギャグのネタ、表現方法、ギャグマンガの可能性etcを考えているような人だからだ。ウエケンはギャグマンガ界の「求道者」といえる。
もちろん、才能に負うとこともある。寡作であることを許容している出版社との関係もあるが、もっとも大きな理由はこれだと思う。
きっと、本質的にはとても真面目な人なのだ。
だからこの作品に「エッ!これがあのウエケンの作品なの?」という意味での驚きはなかったが、絵から、そして文章から読み手に伝わってくる著者の喪失感は尋常ではない。僅かに描かれているギャグですら痛々しさを感じてしまう。まえがきで著者が「おいしいネタ」と書いていることもそう思えてしまう。
たしか、菊池寛が大衆小説(いまであればエンタメ)を「人に喜んでもらうもの」、純文学(私小説)を「自分が書きたいことを書いたもの」と定義していたような気がするが、この作品はまさに純文学だ。
筆者は、再読の際文章だけを読んでみたのが、極端な言い方をすれば、絵がなくとも文章だけで作品が成立していた。普通ありえないことだと思う。もしかしたら、マンガとしてあってはいけないことなのかもしれない・・・。
しかし、それでも、この作品はマンガとして素晴らしいと思う。文章が絵を邪魔していない。絵が文章で補強されると同時に文章が絵で補強されているのだ。もちろん、マンガ(絵)でなければ成立しない表現が数多くある。例えば200〜202pだ。特に、202pはある程度文章で説明しなければ著者の心中を表現することは難しいが、マンガ(絵)であれば一発だ。
例えば、母の遺影を見ながら泣く娘を見て何も声をかけない著者の行動、新しい家庭(たぶん再婚したのだろう)をつくってからの連載などについてあれこれ考えてみることはできるが、自分も含めて同じ立場に立ったことのない者がそれを否定することはできない。
ほかにも書かれている方がいたが、筆者も、最愛の妻を亡くした著者が、その喪失感から立ち直り新たな一歩を踏見み出すために描かれたこの作品を、読者は描かれたことを深読みせず、一人の人間の「再生」として黙って受け入れれば、それでよいと思う。