パレード (幻冬舎文庫)
最初の印象と最後の印象があまりにも違いすぎる。
私はこの本を笑いながら読んでいた。
文体のセンスが良く、ユーモアに溢れ、気持ちのいい空気だった。
あれはないだろう。
ああいうのを想像してはいなかった。
悪人(上) (朝日文庫)
’07年、「週刊文春ミステリーベスト10」国内部門第8位、「このミステリーがすごい!」国内編第17位にランクインした芥川賞作家・吉田修一の問題作。
2002年1月6日、長崎市郊外に住む若い土木作業員の清水祐一が、福岡市内に暮らす短大卒21才の保険外交員の石橋佳乃を絞殺し、その死体を遺棄した容疑で長崎県警に逮捕された。この記述からこの小説は始まる。いったいふたりの間に何があったのか、何が問題だったのか。
物語は時間をさかのぼり、鳥瞰的な視点で始まる。被害者と加害者、それぞれの家族や友人、会社の同僚や出会い系サイトとで知り合った男たちや風俗店の女と、さまざまな人物に次々とズームインし、彼らの口を借りてドキュメンタリーのように、重層的に事件の背景が語られ、全体像を立体的に見せてゆく。
不器用で己れの感情すらうまく人に伝えられない男がなぜ殺人を犯す<悪人>になったのか。嘘で糊塗することで己れを繕ってきた女はなぜ殺されなければならなかったのか。さまざまな登場人物の肉声の中に、その答えがあるのだろうか。私は物語の後半で祐一と一緒に逃避行する馬込光代の姿に素直に感動した。<幸せ>とは何か。<悪人>とは何か。
本書は、吉田修一が抜群のストーリーテラーぶりを発揮した、読むものの魂を揺さぶる会心作である。
7月24日通りのクリスマス [DVD]
日本のラブコメディというのは、演じる側も観る側も何か気恥ずかしいものだ。だからラブストーリーは山ほどあるが、ラブコメは意外なほど少ない(TVドラマではたくさんあるけど)。ハリウッドでいうとメグ・ライアンやジュリア・ロバーツ、リース・ウィザースプーンあたりの十八番だが、日本ではそれに合致する女優が少ないのも要因だろう。でも今回の中谷美紀は良かった。演技が上手いので何をやってもサマになるのだが、ファッションモデル顔負けの美貌を隠してモテない女性を演じても、それはそう見えるのが凄い。同じことは上野樹里にもいえたけど。大沢たかおと長崎は「解夏」の悲しいイメージが強かったが、今回はコメディの中でひとりだけカッコいい演技で笑わせてくれる。いつもヌケている佐藤隆太や、YOUから「数珠」といわれた(映画参照)小日向文世も最高だ。また野波麻帆や平岡佑太といった本来主演級の俳優たちが1〜2ショットだけ出ているのもお見逃しなく。気軽に観るのにオススメです。
NOCTURNE No.9
このシングルのいい所といえばまず第一に、『カッコイイ!!』ということがいえます。BOOWY時代とは多少、違ったギターサウンドも最高で俺に言わせてみれば、この曲を「ダサい…」というヤツはいるのか!?と思うくらいの出来だと思っています。
多分、このシングルを買って”後悔”ということはまずないと思うし、カッコイイ!それに、ギタリストとしての布袋さんが見えてくる一枚だと思います。
てか、ポケメロ?のCM(←ギターを弾いてるやつ)で出だしのみが使われてるし…。
悪人(下) (朝日文庫)
先日、映画版 悪人を見て最後の「俺は・・・、あんたの思っているような男じゃない」があまりにもどう解釈していいのか解らなかったので、小説を買うと心に決め、そのままの勢いで読み切ったのだった。
一緒に居てくれた人からは「あれは光代が罪に問われないためにでしょう」と言われ、確かに最初はそう瞬間的に思ったのだけれども、本当にそれだけなのか、と読むことにしたのだ。
この小説の始まりは、祐一の逮捕から始まる。
そして、祐一を取り巻く環境と殺された女性の環境が交互に映し出される。
この小説を読むほどに、祐一という人間が抱える闇は驚くほど少ない。むしろ、無に近いのかもしれない。体の8割は第三者へのいたわりからで来ている。
この殺人も自ずと優しさの押しつけと誤解から始まったことだったのかに思える。小説版の方が祐一の精神面と行動面を深く掘り下げている分非常に解りやすく、そこに至った経緯も理解がしやすい。なぜなら、映画の祐一は何も言わないし行動をしない。光代を見続けないとそこには何も無いからだ。
上巻はほとんどそこに焦点が置かれていて、下巻は映画の内容通りに話が進んでいく。むしろ、小説では下巻が淡々と進んでいくが、映画だと下巻部分を掘り下げている。つまり下巻は光代の物語だからだ。ヒロインであり狂言まわしである光代がキーファクターなのだが、光代の面から光を当てすぎると光代の感情の流入が強すぎてぶれてしまう部分がある。
だから小説は祐一サイドを明確に書いているので、僕には解りやすかった。
男の精神なんてこんなもんよと思ってしまう。
最後の「女性を追いつめることに快感を覚えとったんです」という台詞があるのだが、これは検事に言わされた結果だろう。祐一は優しすぎる人間でそれを表現するのがすごく下手な男の子なのだから。
祐一のばあちゃんが「・・・これまで必死に生きてきてとぞ。あんたらなんかに・・・、あんたらなんかに馬鹿にされてたまるもんか!」とあるが、痛いほど伝わってきた。なんで、まじめに生きている人間が搾取されなければならないのか、そんな悲痛が聞こえてくる。
佳乃の父親、佳男の台詞がまた心にざっくり刻まれてきた。
「今の世の中、大切な人もおらん人間が多過ぎったい。大切な人がおらん人間は、なんでもできると思い込む。自分にはうしなうものがなかっち、それで自分が強うなった気になっとる。失うものも無ければ、欲しいものも無い。だけんやろ、自分を余裕のある人間ち思い込んで、失ったり、欲しがったり一喜一憂する人間を、馬鹿にした目で眺めとる。そうじゃなかとよ。本当はそれじゃ駄目とよ」
裕福さとは何なのか。ただ、大切な人を思うことではないのだろうか。大切な人たちと歩いていくことではないのだろうか。
この話では悪人を佳乃を蹴りだした大学生や社会の代表の振りをするマスメディアだったりするのだが、小説でも映画でも、そうはいっても人を殺したのは祐一で公的な裁きを受ける訳だ。そして、小説では本人は死んで詫びるしか無いぐらい反省している。そして、光代も逃亡補助をしているので、祐一がかばったとはいえ、心の中で常に葛藤がなされている。
光代も祐一もAROUND 30であり、自分達の世代でありどのように世界を見つめるのかがとても重要になってくるのだが、最近の親とのやり取りで感じるのは、誰しも佳男のように子供のことを大切に思ってくれているし、自分も親のことを大切に思っている。そして、自分の中にも祐一のような不器用さと優しさはある。問題はそれをどのように制御していくか、そして、社会とどのように向き合っていくのか。
悪人という作品は2009年までの閉塞した日本そのものであり、一般には出会い系殺人とよばれる事件を裏側から書いたものであるが、これをどのように各自受け止めていくのかが、2010年以降の日本の社会に求められることだろう