その男ゾルバ (特別編) [DVD]
原題はただの「ギリシア人ゾルバ」。この映画を見て驚いたのは、クレタ島の住民の余所者と仲間内の異端者に対する恐るべき敵意と反感であった。
彼らは外部から訪れた我らが主人公(アラン・ベイツ)が島一番の美女(イレーヌ・パパス)と恋に落ちて一夜を共にしたと知るや、(まるでヨハネ伝第8章に出てくるような光景!)、全員で石を投げつけ、あまつさえ(まるで子羊をほふるように)ナイフで喉を切り殺してしまうのであるが、かつての華やかな古代文明をになった末裔たちがこんな野蛮な振舞いを実際に行っていたのであろうか?
もしもそうならとんでもない話であるし、事実無根ならこの映画の描き方に対してきちんと提訴するべきだろう。
それにしてももしこれが実話で、おのれが愛した美しい未亡人が村人に虐殺される現場に居合わせた物語の主人公が、何もしないで傍観していたならこれこそ天人'に絶対に許されない行為だと思う。
そしてこの哀れな未亡人役を演じるアラン・ベイツとともに比類ない人物造型を示すのはフランスから村に漂着した元踊り子のリラ・ケロドヴァ、そして表題ゾルバ役のギリシア人を演ずるアンソニークインで、特に後者の人間マグマのごとき不滅の存在感はさながら「最後のネアンデタール人」のようだ。
現世の有象無象を見下して君は最後のネアンデタール人 蝶人
その男ゾルバ [DVD]
アンソニー・クインの出た映画の中で最も好きな作品だ。一昔前のギリシャが意外にも現代の日本を彷彿させるものがある。どういうことかと言うと、女は海外にあこがれる。これに対して男は国内だけにしか関心がなく、そんな女を強く嫉妬し、日本の携帯電話みたいに限りなく鎖国化、ガラパゴス化していく。そういう現代の日本の男と女の違いを、この映画におけるギリシャとイギリスの関係に置き換えてみればわかる。まったく、こんな日本に誰がしたと言いたい。しかし、こうした世界はミクロの世界、物理学で言えば、原子や電子の世界なのだ。一方、この映画で最後に主人公二人が、ダンスをするシーンがある。踊りはいったい誰を観客にしているのだろうか。ギリシャ文化を理解する上で、”宇宙”という概念は欠かせない。観客は宇宙という劇場に指定席をもつ人々なのだ。しかし、吉田敦彦も主張するように、日本の古事記にはギリシャ神話との間に深い因縁で結ばれたものがある。ここにミクロの世界とマクロの”宇宙”という概念がつながっている。クレタ島などにいったことのある私は、ギリシャと宇宙の関係がよくわかる。考古学的にはスパルタでみつかった古代の仮面を追うと、この関係が見えてくる。詳しくは、「縄文人の能舞台」と「宇宙に開かれた光の劇場」(二冊とも上野和男・著)という二冊の本を読むと、この日本・ギリシャの照応関係が見えてくる。後者の本は17世紀のオランダの画家・フェルメール研究を介して、ギリシャと日本を寓意で中継している。古代ギリシャのスパルタの仮面は、日本の能登半島の真脇遺跡でみつかった縄文の仮面と照応している。真脇の仮面が怒ったように見えるのは、嫉妬なのかもしれない?
愛と青春のシネマ年鑑(2)哀愁のヨーロッパ映画ベスト
中でもお気に入りは「太陽がいっぱい」(アランドロン)「鉄道員」(イタリア映画)「太陽はひとりぼっち」「冒険者たち」(アランドロン)です。
残念ながら映画はテレビでしか見ていませんが、特に「太陽がいっぱい」「冒険者たち」は、昭和48年頃、大学生活と住み込みのアルバイトを高校卒業と同時に始めた20歳前の多感な私の身体に、文字とおり焼け付くような強烈なインパクトを与えました。私はアルバイトでもらったわずかの金でレコードプレーヤー(モノラル)を買い求め、500円で買ったレコードは「太陽がいっぱい」(サントラ盤)と「冒険者たち」(裏面が太陽はひとりぼっち)でした。田舎から都会に出て希望と不安に満ちながら6畳一間のわびしい部屋で一人むさぼるように聴いていました。
曲を聴くたびに、アランドロンの強烈な上昇志向に自分自身を重ね合わせていたあの当時の自分の姿が思い出されます。
「太陽がいっぱい」はよく映画音楽CDにありますが冒険者たち、太陽は一人ぼっちはあまり見かけないようです。今度はできればサントラ盤で発売してもらいたいです。
キリストはふたたび十字架に〈上〉
翻訳本としては星3つです。星5つはカザンザキスに対してです。
ギリシャ滞在経験があるので小道具の映像も浮かびますし、時代背景も分かります。
ギリシャ人に尋ねることもできます。
でも、これ、内容を理解できる日本人の読者がどれほどいるのでしょうか。
小説の場所がギリシャなのかトルコなのか、時代設定はいつなのか、
ギリシャとトルコの関係とは、文化とは、宗教とは、行事とは、多数の日本語に訳しきれない専門用語、
そもそもキリスト受難劇とは何なのか、巻末に数ページ割いて注釈を入れるレベルです。
※下巻には訳者あとがきがありますが、作家に関することと訳者の謝辞です。
どーせ読者なんていないし、ギリシャに興味を持っている日本人は少数派と見限り、
バッサリ解説をさぼったとしか思えませんでした。
理解できる人だけ読んでくれればいいかのような自己満足の翻訳に感じました。
予備知識のない日本人が読めば、100%架空の場所でのファンタジーとしか思わないでしょう。
現に、もうひとりのレビュアーが「古典のギリシャ悲劇」などと評価しています。
翻訳本からは、まったく現実味が感じられません。
とにかく、翻訳が不親切です。