9・11以後の監視
2001年に出された『監視社会』の続編。9.11の衝撃が監視のイニシアティヴにどのような影響を与えたかを、セキュリティの保障の観点で描写している。
本書では、9.11によって、監視は強化され、統合されているとする。監視の強化とは、監視社会が9.11によって根本的に新しくなったわけではなく、既存の監視実践が顕在化し、強化されたということである。9.11で人々は「セキュリティか自由か」を問われ、セキュリティを選んだ。その結果、監視は強化され、市民的自由が奪われたのである。「隠し事がなければ何も恐れることはない」という定型句を空しくさせるほど、市民が監視の目の網にさらされることになった。監視の統合では、民間のデータベースを国家が利用するようになったことで、これまでより監視が容易になったことを示す。異なる監視システムの収斂と統合が新たな監視の局面である。これらの監視を促進させたのは、9.11によって「疑いの文化」が浸透したからである。疑いの文化による相互不信は監視の要求を高めることで監視社会を生産し、さらに監視によって疑いの文化が生産されるという悪循環が生まれている。
このような監視社会の否定的な側面に対抗するために、筆者は相互信頼の状況を再構築しなければならないと主張する。監視によって安心な社会が実現するというのは、大きな幻想であり、むしろ監視は恐怖を煽っているに過ぎない。危機的な状況に信頼できるのは、そのような監視システムではなく、生身の人間であり、その人間とは自分の家族や友人、隣人などコミュニティーの成員達である。現在の監視社会はこれらの成員間の相互不信を招き、密告しあう社会を形成しつつある。これをくい止めるために、我々のコミュニケーションが重要になってくるのだ。
本書では、前書『監視社会』で強調されていたテーマが再度繰り返し述べられている。監視社会が今日の情報テクノロジーに依拠していること、それによって身体が<消滅>していること、監視には管理と保護という二つの側面があること、監視の強化は市民の要請によって起こっていることなどである。そして、一般的に主張されがちな、テクノロジー決定論や、国家が監視をすべて管理しているという陰謀論、プライバシーを監視に対抗するイデオロギーとして用いることなどを、筆者は否定する。
情報社会の否定的な側面を照射する本書は一読に値する。ただ、前書の『監視社会』の方が監視という概念について体系的な議論がされているため、本書での今日的な傾向と併せて読んでおくと、監視社会の問題像がより深く見えてくるだろう。
華氏 911 コレクターズ・エディション [DVD]
この作品を見てすごく辛いシーンがあった。
アメリカ軍の空爆により、被害にあったイラク人の幼い子供の焦げた死体を父親がカメラに見せて「この子が一体何をしたって言うんだ?アメリカに攻撃したのか?」と言っていた。
戦争の醜さをすごく感じた。最近の映像だけにインパクトは大きい。テレビで見るよりもインパクトは大きかった。それは何故か?
映画でイラク戦争を始めるまでの過程を見た後だからであろう。
ただのブッシュ反対映画ではない。ムーアの戦争に対しての怒り、戦争を始めた奴に対しての怒りが感じられる。一部の権力者の判断によって犠牲になる若者とその家族。これを見て感情的にならない人間は自分をその立場に置き換えてみてください
華氏911の真実
『華氏911』シナリオ・裏付資料・反響・『華氏911』の映画評・
映画の論点を掘りさげた記事 などの章からなる。
翻訳の面もあるが、映画をみてないと分かりにくい個所がある。
マイケル・ムーアは反戦・反体制のスタンスなので、
やや偏った面もあります。
現代アメリカ小説〈2〉1890年から1945年まで
トウェイン
ジェイムズ
ドライサー
ジャックロンドン
フィッツジェラルド
ヘミングウェイ
ドスパソス
フォークナー
スタインベック
ヘンリーミラー
などを扱ってる。
なかなか興味深い
アメリカ文学史の決定版ではないか