ハックルベリー・フィンの冒険〈上〉 (岩波文庫)
読んでいる最中も、そして読了してからも思ったことは、
感嘆と同時に「何でもっと早く読まなかったのか」という自問であった。
それは「児童文学」の傑作でしょと「所詮児童文学」だという<みくびり>が
自分のなかにあったからだと思う。
しかし、これは読んだ者だけがわかることだが、
手に汗握る冒険物語にとどまらず、これは人間の「自由」について問う人類の大傑作である。
この本は一度読んだらもう捨ててもよいという本のたぐいには入らない。
私は、この岩波文庫本上下巻のどちらかを、
ウィスキー・フラスコを旅に持っていくように、
いろいろな旅に携えていきたいと思っている。
訳文も、ハック自身が言うところの「下等」ぶりの口調が素晴らしい。
また忘れてならないのは、Edward Winsor Kembleの挿絵も本当に素晴らしい。
オトナ顔負けの「仕事(task)」をなんなくやってのけるハックの
アンファンテリブルぶりは、ケンブルでなければ描けなかったのではあるまいか。
訳者による巻末解説で、このKembleの挿絵の貢献について一言も言及がなかったのが残念である。
ハックの父親の運命は、ネタバレをしない程度に言うと、
彼の所行にふさわしい感じがした。
しかし、最後の終わり方は、どうにも予定調和的な感じ、
または、ソープドラマのオチのような感じがして、
肩すかしをくったように私には思えた。
子供にも読ませる本としては、この程度の終わり方が妥当かもしれないが。・・・
とにかく、
ハックルベリーフィンは私の心の永遠の友人となった。
これからずっと私の心の中でも生き続け、
「やってられねえぜ。筏に戻ろうぜ」 と時折り私にささやくにちがいない。
ハックルベリー・フィンの冒険〈上〉 (福音館古典童話シリーズ 34)
みなさんが印象として持っている『冒険小説』という言葉は、この本を語るにあまりにも表面的である。ハックが変装する場面にはアイデンティティーの問題があり、教会が黒人差別を正当化しているところにはトウェインの風刺が見られ、沈んでいく船にはロマンティシズムへの背反が見られる。嘘や殺人に満ちたこの小説を少年向けの小説と捉えるには、あまりにも深い小説だと私は思う。また、ハックを利用しようとする父親と、心優しく娘を思う黒人奴隷のジムとの対比や、金銭に執着のないハックとお金に関して口にするトムとの対比も興味深い。(洋書ではハックが黒人だったのではないか、と議論する本もあり、非常に興味深いので、おすすめである。)
Avery's Diseases of the Newborn: Expert Consult - Online and Print, 9e
とても歴史のある新生児学の教科書の最新版です。ページ数がとても多く、内容もどんどん豊富になっていますが、比較的薄い用紙で厚みを工夫しています。自分には、若干薄すぎて雑にめくるとやぶけるかと心配しましたが、けっこう丈夫でほっとしています。円高で比較的購入しやすいので、そばにおいて、どんどん辞書代わりに活用出来る本としてぜひお勧めします。
ハックルベリイ・フィンの冒険 (新潮文庫)
「ハックルベリーフィン」を読んだのは、もう30年以上前、大学生の時のことです。
それから数えきれないほどの本を読んだけれど、
今でも一番目か二番目に面白かった小説だったと思っています。
(ちなみに対抗馬は大江健三郎「同時代ゲーム」ガルシア・マルケス「百年の孤独」「族長の秋」)
この本は面白かっただけでなく、人との関係を築く、保つうえでの教科書にもなっています。
主人公のハックルベリーは、同じ作者の手になるトム・ソーヤとは違って、
行儀の悪い落ちこぼれだけど、実に友達がいのあるヤツで、映画「ティファニーで朝食を」の主題歌「ムーン・リバー」でも、
「My Huclevery Friend」という一節が使われているほど。
とくに、これから人生を広げていく人に読んでもらいたいですね。
ハックルベリー・フィンの冒険 下 (岩波文庫 赤 311-6)
読んでいる最中も、そして読了してからも思ったことは、
感嘆と同時に「何でもっと早く読まなかったのか」という自問であった。
それは「児童文学」の傑作でしょと「所詮児童文学」だという<みくびり>が
自分のなかにあったからだと思う。
しかし、これは読んだ者だけがわかることだが、
手に汗握る冒険物語にとどまらず、これは人間の「自由」について問う人類の大傑作である。
この本は一度読んだらもう捨ててもよいという本のたぐいには入らない。
私は、この岩波文庫本上下巻のどちらかを、
ウィスキー・フラスコを旅に持っていくように、
いろいろな旅に携えていきたいと思っている。
訳文も、ハック自身が言うところの「下等」ぶりの口調が素晴らしい。
また忘れてならないのは、Edward Winsor Kembleの挿絵も本当に素晴らしい。
オトナ顔負けの「仕事(task)」をなんなくやってのけるハックの
アンファンテリブルぶりは、ケンブルでなければ描けなかったのではあるまいか。
訳者による巻末解説で、このKembleの挿絵の貢献について一言も言及がなかったのが残念である。
とにかく、
ハックルベリーフィンは私の心の永遠の友人となった。