幻魔大戦 [DVD]
ワンカットごとの絵の美しさは、りんたろう監督作品の特徴でしょうか。構図、色調、背景の音、全てにこだわりを感じます。さらに青木望氏の音楽が素晴らしいです。劇場用作品らしいスケールの大きさ、そして絵とのバランスに対する考慮も感じるBGMとしての職人技。
声優陣も江守徹、古谷徹、池田昌子等々豪華絢爛で楽しめました。
サービス精神溢れるエンターテイメント作品です。
e文庫 『幻魔大戦deep』 平井和正
この「deep」は即ち「深・幻魔大戦」ということだろうが、再読を始めてみると、初めて読んだときほど東丈の描写やそもそもの文体に違和感がないのに気づいた。もっと「アブダクション」のような(つまりは「地球樹の女神」以降のか?)平井和正の「軽み」の部分が前面に出て、重みの部分は見えづらい、あっても続かない、文体になっており、東丈のキャラクターが直哉もどきになっている記憶があったのだ。
だが、ちょうど同時並行して「真幻魔大戦」を再読していたのだが、さほどの相違は感じられない読み始めだったのだ。
それが、一気に「アブダクション」度を加速したのは、“すてきなお母さん”雛崎みゆきが登場してからになる。彼女の登場以降、丈のキャラクターも世界の描写も「アブダクション」に“憑依”されていく。
が、にも関わらず、では雛崎みゆきというキャラクターがそれほどの圧倒的な存在感を持っていたかといえば……これは決してそうではないのだ。登場当初はそれなりの平井和正の女性キャラクターとしての魅力を備えているかに見える……が、振り子を丈に伝授することのみが役目であり、それが終わればもはや使命を果たしたかのごとく、急速に存在感を喪失していく。いてもいなくてもいい存在としか思われないのだ。(その証拠のように、続く「幻魔大戦deepトルテック」では消失している!)
この「deep」において、新しく登場した重要な女性キャラクターの中でも、雛崎みゆきほど重要であり、そして同時に存在意義のなかったキャラクターはほかにはいない。丈にとってすらも、最速で美叡(&美恵)や雛崎みちるに比べて、みゆきが占める割合はみるみるうちに失われていったのではなかったか。
平井和正作品の魅力のひとつには、確かに女性キャラクターの備える“女神性”があったはずだ。ところが、この「deep」で登場した女性キャラクターたちはいずれもかつての魅力に欠けている。東美恵たちなど、「真幻魔大戦」時の養女時代の愛らしさはどこへやら、といって虎4や杉村優里のようなパワフルな魅力を備えているわけでもなくという、どうにも感情移入する魅力の乏しい女性陣だったのだ。
「真幻魔大戦」登場時の美恵は、「東美恵子」だったはずで、それが“夢魔の寝室”編あたりから「美恵」になっているので、その辺ですでに世界が変わっていたのかも? 「美恵子」のままだったら、また違ったのかな? ……この辺は余談中の余談である。
丈のくだけた口調は、べらんめえ部分はともかく、GENKEN主催になる前の少年の丈にはちゃんと存在していたものなので、それほど違和感はない。それよりも、フロイのような“宇宙意識”とインフィニティたる“宇宙意志”はどう違うのか、振り子はコックリさんとは違うのか、そんな細かいあたりが気になってしまうところはある。
GENKEN時代の丈の失踪が、ついに逃避だったと断定されてしまったが、これはつらいところではあるかもしれない。
けれど、GENKENを作らないでいた丈のまわりにやはり久保陽子や平山圭子もいたようだ。彼女たちと一緒に、“非・GENKEN”の丈はいったいどう活動しようとしていたのか。その物語も興味が湧いてしまう。オヤブンでもなく、東丈先生でもない丈は、はたしてどう幻魔大戦に関わっていったのか。
そして……GENKEN世界の延長でありながら、ハルマゲドンの少女にはつながらなかったらしい世界の木村市枝は、「砲台山」の時同様、やはりあくまで木村市枝だった。それがやはり、純粋に嬉しいのが、どの読者にも共通のことではないだろうか。
角川映画主題歌集
20数年前に主題歌集のCD「角川映画スペシャル」を買いましたが、それには「セーラー服と機関銃」「時をかける少女」が映画とは違うバージョンで収録されており、映画の思い出とリンクしないように思えて長年不満を感じていました。(オリジナルバージョンを求めて薬師丸ひろ子や原田知世のベストCDを買い増ししたほどです。)
このCDではそれが解消された上、「スローなブギにしてくれ 」や、「ねらわれた学園」の主題歌「守ってあげたい」なども入り、大満足です。まさに真の主題歌集であり、愛蔵版、永久保存版といえる出来だと思います。 ブック付き特別仕様のデラックス版も出ていますが、音源だけでOKの人はコチラが安くていいと思います。
70年代後半から80年代にかけて青春時代を送り角川映画を見てきた人なら持っておいて絶対損はしないものではないでしょうか。ジョン・オバニオンの「八剣士のテーマ」に感激しました!
e文庫 『地球樹の女神-最終版-』 平井和正
「その日の午後、砲台山で」には驚いてしまった。
初読ではない。再読だ。初読の時には、いったいどうして特段の感銘も高揚も感じたおぼえがなかったのだろう。
「女神変生」のように、「ウルフランド」系列なまま終始したように思い込んでいた。タイトルの印象のせいもあるかもしれない。PC上でのみ、読みづらさのために斜め読みっぽく読んでしまっていたのかもしれない。
今回はモバイルで、スマートフォンを活用して読んでいた。仕様なのか、そのつもりもないのに段組になっていたのだが、それももしかしたら奏効していたのかもしれない。活字がぎっしり詰まっている方が、平井和正の小説を読んでいる気にさせてくれる。
最初のうちは、記憶のイメージ通りだった。作家・平井和正のモノローグとして始まり、「幻魔大戦」のキャラクター、「地球樹の女神」のキャラクターと遭遇する。この辺りは、「あとがき小説 ビューティフル・ドリーマー」で通過済みだ。
波紋疾走感覚が走り出したのは、スーパー化して、四騎忍として一人称「おれ」で動き始めてからだ。
もちろん、あの少女、木村市枝の威力もあったかもしれない。市枝はいつも不動の存在だ。「幻魔大戦deep」においてもそうだった。市枝がそうであり続けてくれることは希望や安心を与えてくれる。
「ボヘミアンガラス・ストリート」は一人称「僕」が相応しかった。「アブダクション」の三人称「少年」は疾走感覚に没入することを妨げていた気がした。今回、スーパー平井和正の四騎忍が初めて一人称「おれ」で登場した――この「四騎忍の冒険」を読んで、ああ、なんだ、ちゃんと走れる……と感じた。平井和正には本当に「おれ」小説がよく似合う……
これなら、つい数週間ばかり前、たぶんもうアダルト・ウルフガイが再起動しても、それはやはりちがうものだろう……と悲観していたのだが、そうと決めつけるわけにもいかないのかもしれない。
そう、読み終わるのが凄く勿体なくて仕方がなかったのだ。久しぶりだ。再読した「ボヘミアンガラス・ストリート」でも「アブダクション」でも、ついにそれを感じることがなかった。「地球樹の女神」だけは少し異なっていたが、それは単に後藤由紀子にまだまだ未練があったからだろう。
読み終わるのが惜しくて仕方がない……こんな面白い小説を、と、まさかこの「その日の午後、砲台山で」の再読で感じることになるとは、思いもしなかった。
やっぱり、平井和正は端倪すべからざる、なんだよ、と思った。まだまだ、きっと。
幻魔大戦 [DVD]
大友克洋と金田伊功の才能を世に知らしめた点で計り知れない価値を持つ作品。だが、逆に言うとその二人が関わった部分以外は、今となっては正視に耐えない。
りんたろうの演出はこの当時でさえ既に古臭く、新しい才能を十分に生かし切れていない。
オーディオコメンタリーでも触れられているが、冒頭の予言者をホームレス風にしようとした大友克洋の意見を排して、陳腐な女占い師風にしてしまったあたりにそれは端的に表れている。
丁度日本のアニメの変革期に作られた作品であり、あの時点ではこのようにしかならなかったのかも知れないが、あらゆる面で消化不良だったと思う。