ゴルゴさんち
さいとうたかをの奥様(当時)であり漫画家のセツコ・山田の
家族をモデルにした漫画です。
(あくまでモデルで、全て実話というわけでは無いようです)
だいぶ昔に出た 単行本『ゴルゴさんち』(上)(下)に、未収録だった作品約30本を
合わせて一冊にした 文庫本『ゴルゴさんち』です。
また掲載されていた場所は『別冊ゴルゴ31』の巻末です。
一話が4p〜6pの短いものですが、全てが丁寧に書き込まれていて
漫画のデフォルメなどもきちんと学んできた方が描かれた
質の高い漫画だと思います。
読むとホッとする あたたかい面白さです・・・
当時の流行などもよく台詞の中に出てきていて、
作者の娘さんの年齢(40歳前後?)ぐらいの方が
一番共感できるのかもしれません。
(愛人バンクってなんだろう・・・)
祖母の家に行く度にこの単行本を読んでいましたが
祖母が亡くなった後行方不明になり・・・
20年ぐらいの月日を経て文庫として復活されて
手に入れることができ、感無量です^^
読み応え十分の傑作です!
目線 (幻冬舎文庫 あ 31-2)
第1作 氷の華 がおもしろかったし、ドラマ化もされた天野氏の第2作。単行本は2009年に発行されたそうだが、
このたび文庫で初めて読んだ。 期待していたのだが、ドラマの脚本のように セリフの部分が多く、それが
自然でない感じがして、おもうようには楽しめなかった。
またTVでドラマになるのだろう。
そのときは観るつもりだ。
ただ、読書という観点からいわせてもらうと、
これではすでに脚本になってしまっていて、
いわゆる本を読む楽しみとは少しかけはなれてしまい、
文字を追わずに場面を追うようになり、これだけのボリュームになっていても、
読み飛ばしてしまった。
また、刑事像などがステレオタイプなところも難点。
集団就職で上京したという3人についての少年時代とかの掘り下げが
もうすこしあれば、もっとたのしめたのに、とおもい 星2つ
マイナスさせてもらった。
コミュニティ (集英社文庫)
収入減に伴い、さびれた団地に引っ越してきた
主人公夫婦。
そこには住人たちの度が過ぎる人間関係が存在していた。
最初はキャリアウーマンとしてのキャリアに固執していた妻が、
いつのまにか家族同様の人間関係にすっかりなじんで
生活していく過程は詳しくは述べられていませんが、
頭脳で勝負していた人間が、本能に身をゆだねる人間に
そう簡単に変われるものかな〜と疑問に思いました。
でも、そんな住宅がもし存在したら、ちょっと気持ち悪いかも・・・
原節子 十六歳 ~新しき土~ [DVD]
娯楽や贔屓への思い出としてだけ見るには、余りに惜しい要素を厖大に含んでいるので、敢えて星5つにもした理由を知ってもらいたい。
先頃より、写真美術館ホールで一ヶ月の上映会がなされた。
同時に作られた伊丹万作版も特別上映されたので、両方ご覧になったならば、同一脚本での別バージョン等という言葉で括れない、とんでもない、別次元の代物としての対極にある事を知る。
この、「忘れる様に押し込められた事件」は、様々な物議をかもす要素に溢れて、今の時代にも持ち越され手つかずにあるのだと。
この期に及んでも尚、写真美術館パンフレットには、遺産資料ではなく一興行の様に、同一脚本ながら・・・等と「上面を装う善意」ばかりが表層を覆い、近視眼に楽しむ事を促していた。
或いは、大雑把に一部のキーワードを繋げて、いかにも論理的で判った振りをすれば、目先の楽しみだけを温存して何かを乗り切れる、という思い込みを増長するかの様に。
「表現技法で芸術家が凌ぎを削りました。諍いではなかった。」等と云う『善意』で語られる過去話は、事実ではない。
この映画にまつわるものは、表現者の矜持というものの何が、時代を超えて生きる力を持つのかという事、更に、忘れる事や見る力を失う事がどんな時代を生むのかという深刻な事実かも知れない。
満州帝国を心情的に世界容認させる、という国策的意図を組み込む様命じられていた要素は、タイトルからして汲み取れるだろうが、いつだって優れていると思われる表現は常に誰かに欲得尽くに利用される面がある。
当時のドイツ語圏、第三帝国とその周縁国で封切られた時のタイトルは「Die Tochter der Samurai」”侍の娘”で、アーノルド・ファンクという山岳映画の巨匠にして、レニ・リーフェンシュタールの女優としての名声を高みに押上げた監督の作。
伊丹万作は共同監督の筈が、英語版監督として別のテリトリーを構え、プライドを通せて、スタッフもキャストも撮影場所も凡そ同じで「出発点とは違う別脚本のもの」を、仕上げた。
当時の社会的評価は、日本という極東の帝国にある美への感動と、環境文化の違いを超えた理解と共感を主眼に表現を構築したファンク版に評価が集まり、国策的要素が覆っていても、心揺さぶる人間ドラマを自然に仮託しての美しい映像表現として、鑑賞者から喝采を浴びたようで、若き原節子の欧州での舞台挨拶旅行まで行われている。
伊丹版の方は、今では、「反戦的心情故に本意の制作でもなかった芸術家の苦悩」という様な言い訳が採って付けられているが、莫大な予算で完成した「人も画けていない表層的メロドラマ」として、また日本人の品位を落とす表現を敢えて入れていた事に対する外からの嘲りや内からの譴責で、内外の鑑賞者から蔑視されたようだ。
満州映画の総帥でもあった甘粕大尉らとの軋轢反目があったにせよ、幼子の抵抗の様に振る舞った大人は見苦しかったのではあるまいか。
心を画くために、当時の最新技術を駆使し、表現上の工夫のありったけを凝らし力を尽くしたのはファンク監督だった。
つまり今売られているのはファンク監督の作。
今では、評価を落とした伊丹の往事の事に触れず、死者に鞭打つ勿れとして目を背ける心情と因習の中に、誰もが知っておくべき表現者の物語は封印されてしまっている。
優れた才能を持ち評価もされながら、遂には瞞着したヌケサクの一生を「反戦的心情」と言う免罪符で「ゲイジュツカの苦悩」と短絡化するのは、事実を歪めてまで身びいきをしてしまう恣意的心情が、次世代の向上を歪めて増長させ、結果押し拉いでしまう事になりかねまい。
ここからは予告編以上の内容に触れるので、ネタバレ。
本編をご覧になった上で伊丹版との違いを知って頂くと言う意味で少しばかり。
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円谷英二の特撮が使われているのは伊丹脚本ではタイトルバック数秒のみ。
しょっぱなの導入からして展開の順序が違う。
日本の風土描写が延々と続き、話の始まりが遅いのは伊丹脚本。
輝雄の実家、地震や家族描写が伏線的なのはファンク脚本。
日本の都市風景夜景や田園自然との対比をゲルだの興味と驚きに合わせて見せているのはファンク脚本で、伊丹脚本ではその意図はない。
第三帝国の既知の映像と違い足並みが揃っただけの貧相な軍の行進は、ファンク脚本では短く部分描写。
主人公光子の寝台列車中の夢の描写で、ファンク脚本では明確に傾斜して悪夢としてあるが・・・。
輝雄の苦悩や心のブレ、享楽等から、体験的に日本を見つめ直す経緯が論理的に追えるのはファンク脚本。
数秒の些細なものでもファンク脚本で意義深い、日本の農民が歌う素朴な歌は、伊丹脚本には現れない。
光子の哀しみと侍の娘ならではの凛とした振る舞いに立ち返る姿は、何度も出て来るが伊丹脚本ではあらかた省略。
ゲルダの手紙の扱いは、大きく展開上の違いを見せており、ファンク脚本ではスリリングに、途中の展開、終盤の身を引く女の更に深い理解と愛情にまで及んでいるが、伊丹脚本ではあっさりと捨て置かれ、きわめて無礼で浅ましい日本人の行動となって画かれている。
光子が家を出る時に残した和歌が作法通り短冊なのはファンク脚本、メロドラマっぽく走り書きなのは伊丹脚本。
火山に向かう光子は、ファンク脚本では鉄道で、伊丹脚本ではバスとなっているので・・・。
光子は和装で花嫁の着物を携え登るが、それは白無垢でないため予めゲルダに説明する形で、生涯一度しか袖を通さぬものと設定してあるのがファンク脚本で、伊丹脚本では最終的に無事持ち帰られる。
輝雄は自動車で追うが、途中ゲルダの前を過ぎる後に続く重大な伏線は、展開上ないのが伊丹脚本で、自動車が乗り捨てられた地点が違っていて、只後を追う。
大正池での会話や、泳ぎ渡るために靴を脱ぎ去る等ないのが伊丹脚本。
リーフェンシュタールと双璧を為す山岳での演技は、原節子を国際女優として確立させたが、伊丹脚本はけなげなばかり。
凄まじい危険を制しながらの高度な山岳ロケを、精神描写に絡めて多用していないのが伊丹脚本。
ファンク脚本は岩頭で着物を取り出して抱える所で輝雄が間に合うが、伊丹脚本では袖を通し倒れ、輝雄は後で辿り着いて、光子と風に飛んだ着物を見つけ山小屋にて介抱、その後の展開も違う。
つまり輝雄の火傷で血まみれの足を光子が膝突いて包むシーンは、伊丹脚本にはない。
ゲルダの深い理解と愛を知ることになる後の手紙に添えられたスナップ写真の、疾駆する車の輝雄とすれ違う場面は、当然伊丹脚本にはない。
満州のテロップは伊丹脚本に無く、象徴的な描写ではない長いのが伊丹脚本で、兵士の顔をクローズアップせずロングショットで終わる。
大雑把にこの程度で止めておく。
優れた教材になるであろうから、世代を継いで次々と大いに、比較議論される機会を設けるべきだろう。
セツコ・山田の猫三昧〈第4巻〉
このシリーズ、月刊誌に2ページで連載されているようで、出版されるのが大体5年にいっぺん。
通算4冊目で第1巻から約15年、連載開始からは20年たっているとのこと。
著者と娘さん二人と猫の生活のエッセイマンガなのですが娘さんたちが相変わらず実家で暮らしているようでちょっと心配。余計なお世話ですね。失礼しました・・・。
これからもがんばっていただきたい。