王の逃亡 (小説フランス革命 5)
本書(佐藤賢一『王の逃亡 小説フランス革命'X』集英社、2010年)はフランス革命をテーマにした歴史小説『小説フランス革命』シリーズの第5巻である。本書では国王ルイ16世一家がオーストリアへの逃亡を企てたが失敗に終わったヴァレンヌ逃亡事件を扱う。本書の大部分が国王一家の逃亡過程に割かれている。
本書の特徴は、その大部分を占める逃亡過程の視点人物をルイ16世としていることである。伝統的に国王一家の中で最も個性的な存在として描かれてきたキャラクターは王妃マリー・アントワネットである。ルイ16世はマリーのわがままに振り回される人物として描かれる傾向にあった。
これに対して、本書ではマリーはルイ16世の目から描かれるのみで、彼女が何を思い、何を考えているかは分からない。本書でもルイ16世がマリーを意識し、迎合する傾向は見られるものの、むしろルイ16世にとっては守るべき家族と認識している。家族を守るために一家の長としてルイ16世が考え、判断し、行動している点がユニークである。
主体的なルイ16世を描いた点で異色であるが、ルイ16世はミラボーやロベスピエールのような英雄肌の人物でも、タレイランのような怪物でもない。世評にあるような愚鈍な暗君ではないとしても、並みの人物である。万難を排して自らの信念を貫き通すよりも、逃亡という行動が正しいか迷い、揺れ動いている。逃亡が失敗に終わったことも納得できる。
ルイ16世を視点人物としたことにはフランス革命の物語を進める上で重要な効果もある。ルイ16世の目を通して、革命の担い手である第三身分の中に生まれている階級対立を改めて整理する。ブルジョアと貧民(サンキュロット)の対立である。これは以前の巻でも度々言及されてきた対立軸であるが、革命の部外者であるルイ16世に認識させることで、改めて読者に印象付けることに成功した。
意図したものか否かは不明であるが、『小説フランス革命』シリーズは日本の社会状況の鏡となっている。革命前夜を描いた『革命のライオン』ではアンシャンレジームの行き詰まりが、閉塞感漂う出版当時の日本社会の状況を想起させた。本書で描かれた革命後の人々の不満やイライラは、歴史的な政権交代を果たしながら失望をもたらした今日の日本政治を連想させる。
逃亡した国王一家であったが、ヴァレンヌで捕捉され、パリへ連れ戻される。迎え撃つ市民の側の物語ではデムーランが視点人物となっている。ロベスピエールやダントンのような激烈な人物を視点人物としていないところが面白い。デムーランは愛妻リュシルとの家庭生活という小市民的幸福を志向し、政治から足を洗おうと思い悩んでいた。
ところが、反動化した三頭派は「国王は誘拐された」という嘘の発表でヴァレンヌ事件を穏便に済ませようとした。これにデムーランは激怒する。人を馬鹿にしたような嘘を本気で通用させようとしているからである(282頁)。
記者は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実(隣地建て替えなど)を隠して新築マンションをだまし売りされた(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。だまし売り発覚後の東急不動産の言い訳が「隣地が建て替えられてキレイになった方が喜ぶ人もいる」であった。人を馬鹿にした嘘を押し通す不誠実さへの怒りに共感する。
デムーランは政治の世界に戻る意思を固める。かつてはミラボーが存在していた。しかし、ミラボーの死後は大衆と共に怒り、そして導き、行動する人材が足りないと痛感したためである(290頁)。
そのミラボーは前巻『議会の迷走』で死去し、その弟子を任ずるロベスピエールの熱い決意が最後に描かれた。本書の冒頭ではミラボーを失った国王の痛手を描き、それが逃亡の誘因となる。そして最後でもデムーランによってミラボーが想起される。『小説フランス革命』シリーズにおけるミラボーの存在感の大きさが実感できる。
聖者の戦い (小説フランス革命 3)
本書(佐藤賢一『聖者の戦い 小説フランス革命III』集英社、2009年3月30日発行)はフランス革命を描いた歴史小説の3作目である。著者はフランスを舞台とした歴史小説を得意とし、『小説フランス革命』シリーズは全12巻を予定している。本書ではヴェルサイユ行進などの民衆の実力行使が一段落し、その後の憲法制定国民議会の混迷を描く。
本書では新たにタレイランが主要人物として登場する。タレイランは由緒を辿ればフランス王家に匹敵するほどの大貴族の生まれである。革命当時は自身もオータン司教として特権身分の座にあった。
旧体制を代表する立場にあるタレイランはフランス革命では革命を支持する側に回った。その論理を本書は興味深く描いている。絶対王政下では大貴族であっても王の家臣でしかない。しかし、自身が制定に参加した人権宣言で人間は平等とすることで、誰もが一番になれる時代が到来したとタレイランは考えた(16頁)。「究極の貴族主義は革命をこそ歓迎する」との発想にはタレイランの怪物ぶりを示している。
このタレイランは自らも聖職者でありながら、教会財産の国有化や聖職者の特権廃止などを強引に進める。それに対し、聖職者側は反発し、容易には進まない。表題の「聖者の戦い」は、この対立を示している。進退窮まったタレイランはミラボーを仲立ちとして抵抗勢力の首領・ポワジュランと話し合いの場を持つ。
革命そのものには反対ではなく、宗教としての神秘性を維持したいポワジュランと、それを理解しようとしない現実主義者のタレイランの噛み合わない議論が興味深い。ここではミラボーが間に入ることで妥協点を見出せた。しかし、相手の理念を理解しないことからの行き違いで、協調できる者が対立することも現実には起こりうる。
このタレイランはフランス革命期よりも、ナポレオン失脚後のブルボン復古王政期の外務大臣として歴史に名を残している。当時のフランスはナポレオン侵略戦争の敗戦国であった。にもかかわらず、彼はブルボン王家も被害者とすることで、フランスの損失を最小限にとどめた。
タレイランを名外相とする意識は西欧世界に共通する外交感覚であり、今日の国際社会の価値観に続いている。この外交感覚に則るならば、第二次世界大戦の侵略国・敗戦国であり、連合国(戦勝国)の価値観を受け入れた日本政府の高官(田母神俊雄・航空幕僚長)が侵略戦争を正当化する主張をしたことは、本人の信念の是非は別として、国際社会における日本の国益を大きく損なうものであったことは確かである。
後世には名外相と称えられるタレイランも本書では自尊心ばかりが肥大化した存在である。発想はユニークであるものの、他者を説得するという感覚に乏しく、ミラボーの助け船で何とか多数派工作に成功できた状況である。今後、タレイランが名外相としての片鱗を見せるのかも『小説フランス革命』シリーズの見どころの一つである。
第1巻『革命のライオン』で描かれたアンシャン・レジームの行き詰まりは閉塞感漂う現代日本のアナロジーと感じられた。同様に本書での国家の交戦権についての議論も、憲法の謳う徹底した平和主義が骨抜きにされつつある日本において参考になる内容となっている。
憲法制定国民議会とは文字通り憲法を制定するための議会である。そこでは宣戦・講和の権限を国王が持つべきか、議会が持つべきかで対立した。右派(保守派)は「防衛は急を要する」ことを理由に国王大権に属すると主張し、左派(愛国派)は「戦争をするか、しないか、それを決めるのは国民」として議会の権限であると主張した(161頁)。
この議論が行われた時期はフランスの友好国であるスペインとイギリスが一触即発の危機にあった。そのため、艦隊に出航待機命令を出し、イギリスを牽制した国王政府への支持に議会内も傾いていた。これに対して、左派のラメット議員は国王が議会に諮らずに派兵の準備を進めた手続き上の問題を指摘する。状況に流されず原則論から問題点を明確にする姿勢は付和雷同しがちな日本社会にとって眩しい存在である。
左派が国王の交戦権に反対する論理構成が興味深い。国王が宣戦・講和の権限を持てば、国王は自分の意思で軍隊を動員でき、その軍隊が再び国民を弾圧することに使われる可能性があるとする(163頁)。ロベスピエール議員は「戦争とは常に専制君主を守るための営みだ」と喝破する(166頁)。
平和主義は空想的と非難されることがある。しかし、有事に軍隊が国民を守ってくれるとは考えない点で真の平和主義者は現実主義者である。現実問題として近代憲法は最大の人権侵害の主体を自国政府と位置付けている。国家が戦争を行わないようにすることは理想論ではなく、権力の害悪を直視した現実論である。
日本国憲法が平和主義を憲法の3原則の一つにまで高めた理由は平和がなければ国民主権も基本的人権も画餅に帰すと考えたためである。ここに日本国憲法の斬新さがあるが、戦争と平和の問題はフランス革命の時代においても内政上の争点であり、民主主義や人権に直結する問題であると理解できた。
マリー・アントワネットの宮廷画家---ルイーズ・ヴィジェ・ルブランの生涯
実はこの本を読むまで、ウ“ィジェ・ルブランの有名な絵を何枚か見て「なんて優しい雰囲気の絵を描く人だろう」と思っていたが、ルブランの一生や人間像については全く知らなかった。この本を読んで、著者がまっすぐに観者を見る自画像の目の澄んだ強さに一瞬で心を惹かれた謎が、よく分かった。
この本はありきたりの伝記本でもないし、絵の解説書とも違う。著者の長い詳細な資料と研究による希有な評伝である。ウ“ィジェ・ルブランはマリー・アントワネットが断頭台の露と消える間近まで王妃の近くにいたが、以後幼い娘と共にフランスから亡命し、何百枚もの貴人の肖像画を描きながら各国を放浪した。
この本は彼女が描いた肖像画のモデルと、その背景の人物達を美術館や資料で一人一人追って、フランス革命前からナポレオンの死去後まで、著者の感性に強く触れた人たちの人物像やエピソードを、日本では見られない画像を駆使して書いている。時には愛情を持って優しく、時には一人一人の背景や人間性を暴き、時にはぎょっとするほど生身の人間の残酷さをも書いているが、その中で終生何がウ“ィジェ・ルブランに多大の肖像画を描く気持ちに駆り立てていたのか見せてくれる。同時にこちらを澄んだ目で凝視し続ける自画像に隠された押し殺された悲しみと矜持が著者の文から伝わってくる。そして読み終わったとき、 ウ“ィジェ・ルブランの人生に初めて触れた読者に、著者は強く生きることの素晴らしさと爽やかな温かさを残してくれた。
マリー・アントワネット (通常版) [DVD]
ソフィア・コッポラが撮るマリー・アントワネット? と興味深々で見たが、如何にも
彼女らしく、レビューでは少数意見になるようだが、敢えて満点を付けたいと思った。
一言で言うと、ステレオタイプのマリー・アントワネットでないところがとても良い。
衣装や食事、部屋の装飾にゲームやオペラ・・。何をとっても妥協しない美しさである。
色合いも良いし、流れる音楽も恋愛に突っ走るところではロックというのも合っている。
歴史に素直に流される等身大のマリー・アントワネットがきちんと表現されていると思う。
例えば壁に掛けられた「白い馬の絵」は、この時代は芸術作品などではなく、最も速くて
カッコイイ乗り物のポスターのようなものだったはずである。そのように考えたらたら、
この映画に登場する若者の風俗や心象は、案外ソフィアの解釈が正しいような気もする。
ベルサイユから見るとフランス革命も、あの位のノイズにしか感じられなかったのでは?
この映画では、祖国に残した愛犬をおねだりするシーンはあってもギロチンのシーンが
無いのは当然だと思う。最後に香水の匂い袋がDVDのおまけというのもご愛嬌である。
PERFECT SELECTION
ルイマリーを最初聴いたときは「え?これ西川さん?」とか思いました。歌い方や声質が今と全然違って、すごく若々しくて新鮮です。でもやっぱり根本的には今と同じで、聴き手をぐいぐい引き付ける力があります。
ルイマリーのアルバムの中ではこのアルバムが一番好きです♪いろんなタイプの曲が入ってるし、どれも本当に良い曲で、捨て曲はひとつもありません!