福田和也の超実践的「文章教室」~スゴ腕作家はなぜ魂を揺さぶる名文を書けたのか~ (ワニブックスPLUS新書)
例えば著者は村上龍や沢木耕太郎の作品を、評価していない。
中上健次についても、多くの批評家のように手放しの絶賛はしていない。
それでも著者は、彼らの文章がなぜ読者を惹きつけるのか、冷静に分析を試みている。
『作家の値うち』以降、著者の文芸評論は辛口で知られるが、
本書を読めば、著者が文章の読み手として確かな鑑定眼を持っていること、
そして、作品が今ひとつであっても、文章は魅力があるのだと是々非々で評価ができる、フェアな評論家であることが理解できる。
白眉は東海林さだおの文章を論じたくだり。超庶民派のB級グルメエッセイの文章の魅力に、的確な解説を加えていて、
東海林の文章は一見する肩の力を抜いて簡単に書けそうなものだが、素人には真似のできない多くの技巧によって成り立っていることを解きほぐす。
文章の上達はもちろん簡単ではない。膨大な文章修行を積んだ作家たちの文章を読んでも、タイトルのように実践的に活用するのは難しい。
しかし、漱石から舞城王太郎まで、近代日本の作家たちの文章を読めば、日本語は決して捨てたものではない、と気づくはずだ。
『ことばの見本帖 (ことばのために)』 で高橋源一郎が蒐集した日本文学最前線の文章とともに読んでほしい。
コロッケの丸かじり (文春文庫)
ショージ君をイメージする単語のひとつに「コロッケ」があった。筆者は解説が楽しみ(たまにつまらない解説もあるが)なので、このシリーズは文庫本で購入することにしているのだが、「コロッケ」は初期の頃に使用済だと思い込んでいたので、今頃タイトルに「コロッケ」が使われていることにちょっとびっくりした。文庫本は全巻揃え何度も繰り返し読んでいるのに・・・。
丸かじりシリーズで好きなネタのひとつに、○○を丸かじりしてみる、という実験?がある。
ショージ君は過去に(還暦を過ぎてからも)クリスマスケーキをはじめ様々な食べ物を丸かじりしてきた。ゴーヤを丸かじりしたこともある。
エッセイのネタとして丸かじりしてみた部分もあるのかもしれないが、それより大きな部分を占めるのはやはり好奇心なのだと思う。彼のエッセイが凄いのはそんなことをしてもまったく嫌味にならず、読者もその姿を想像しつつクスクス笑えることだ。
今回ショージ君は、正確には丸かじりとはいえないが、生八つ橋がどうしてあの形になっているのかという真意がわからず、生八つ橋を10枚重ねて食べたりしている。更に5枚を丸めて食べてみたりもする。
この衰えを知らない好奇心、もう脱帽するしかありません。
おにぎりの丸かじり (文春文庫)
10月から続いた丸かじりシリーズ200万部突破記念の文庫本3ケ月連続刊行もこれでおしまい。丸かじりシリーズは文庫で読むことにしているので、毎月新作が読めるという幸せに浸ることができた。
丸かじりシリーズで好きなもののひとつに、○○を丸かじりしてみる、という実験?がある。
ショージ君は過去に(還暦を過ぎてからも)クリスマスケーキをはじめ様々な食べ物を丸かじりしてきた。ゴーヤを丸かじりしたこともある。丸かじりではないが、生八つ橋を10枚重ねて食べたりもしている。
エッセイのネタとして丸かじりしてみた面もあるのかもしれないが、それより大きな部分を占めるのはやはり好奇心なのだと思う。彼のエッセイが凄いのはそんなことをしてもまったく嫌味にならず、読者もその姿を想像しつつクスクス笑えることだ。
今回もありました。それも三つ。
「マツタケ」、ちょっと変化球の「おかずも何もなしで丼飯一杯(しかも大盛)を食べてみる」、番外編?として「一口で肉マンを食べてみる」だ。
で、マツタケの丸かじりは経済的に無理、というか買ったとしてももったいなくてできないので、「丼飯一杯」をやってみた。筆者は妻子持ちだが誰も協力してくれないだろうし、そんなこと恥ずかしくて言えないので子供には隠れてやってみた。妻はあきれるばかりで相手にしてくれず・・・。
書いてある通り、ツライ・・・。
ショージ君は最後の一口を「メンタイコ3粒」で食べたが、メンタイコがなかったので醤油をひとたらしして食べてみた。
ショージ君はそのおいしさを「体が震えた」と表現したが、それは醤油でも同じ。体が震えた。