ロッキー・ザ・ファイナル (特別編) [DVD]
テーマはどんなに叩かれても自分を信じて前に進み続けること
非常に単純なテーマである。しかし多くの人はなかなかできないことである。
高齢でボクシングで再チャレンジすること。これに対して様々な批判がくる。
一番応えたのは息子の言葉ではないだろうか。会社の同僚にバカにされるから辞めてくれ。
こう言われたら少しはひるむのが普通の親だと思った。自分なら申し訳ないというだろう。
しかしロッキーは違った・・・。このときのロッキーの言葉に私は鳥肌がたった。
これに息子は何も言い返せなかった。
思えばロッキー1〜4はどれも打ちのめされても立ち上がるロッキーを描いていた。
アポロに何度打ちのめされても立ち上がるロッキー1、2。2では就職難やエイドリアンの危篤にも打ちのめされた。
3ではミッキーは死にクラバーにボコボコにされ自信を壊されても、そこから立ち上がった。
4では相手が怪物級の人間で殺されるかもしれない危険な相手でも最後まで戦い続けて勝利を掴んだ。
そう、ロッキーはいつも打ちのめされては立ち上がっていた。
だから今回のロッキーのメッセージは決して酔狂で言ってるのではないのだ。
細かな設定の非現実性等は目をつぶるべきだろう。
今回は年に対する数々の困難が痛烈に描かれている。それに対するロッキーの抵抗をしっかり目に焼き付けて欲しい。
そうすればトレーニング時・ファイナルラウンドのゴング終了時、そこには確かな感動がある。
ロッキー最終章を飾るのに文句のないテーマ、出来だったと言える。
綺麗事を本気で言える人間になりたい、綺麗事を本気で言える生き方をしたい。そう思った。
ロッキー・ザ・ファイナル
映画本編は、今まで味わったことのないほどの感動を体験できた・・・。
60歳でボクシングをまた始めるなんていえば、普通の感覚では、無謀と取られかねない夢だが、観ていく内に「ロッキーはボクシングをやるべきだ」と観客に感じさせてしまう、スタローンの驚異の脚本力は脱帽ものだ。
その力は、この小説でも健在だ。
正直この本の存在は随分後になってから知ったが、読み始めてみると、映画のシーンが思い起こされるし、何より、映画では描ききれなかった、各人物の心理描写などが書かれていて、大変面白かった。
僕は、ロッキーが大好きだ。
愛があり、優しく、寛容で、それでいて胸にいつもアツイものを持ち続けている・・・。下手だけど、愛嬌のあるジョークを飛ばすところなんかも、全て含めて大好きだ。
僕にとって理想の人、それがロッキーだ。
この作品で、それを再確認できた。
ありがとう、ロッキー!!
ロッキー・ザ・ファイナル (特別編/勝負ガウン付BOX) [DVD]
もちろん最後は試合シーンでアドレナリン全開にしてくれることのわかっているロッキーシリーズの作品だからこそだと思うが、(僕自身のトシのせいか)この『ロッキー・ザ・ファイナル』には、静かな導入部や、ロッキーのプロライセンス再取得へむかっていく物語の部分にいくつもの味わい深いシーンがあった。
泣かされたのは、チャプター6や7のロッキー達のちょっとしたやりとりだ。
自分にからんできたヤンキー達を、おまえ達どうしてそうなんだ?という訝しげな表情で見つめつつ、放っておいたロッキー、
けれど、その同じヤンキー達がリトル・マリーを傷つける言葉を吐いたときは黙っていない。
ヤンキー達をとっちめてクルマに戻ってきたロッキーが笑顔でリトル・マリーに言う、「あの男、君に謝ったよ」・・・ なんて、優しい人間だ(涙)
チャンピオンのディクソンも、試合シーン以外はあまり画面に出てこないし、人物としての存在感はシリーズの他のボクサー達(特に、カール・ウェザースの演じたアポロ・クリード)と比べれば弱めだが、ちょっとしたやりとりで、ひとりの悩める人間としての奥行きを見せている。
チャンピオンになってエージェントや取り巻きがつくようになっても全く幸せそうな顔をしていないディクソン、
かつてのトレーナーに会いたくなって古巣のジムへやってくる。
人間的な成長はこれからというディクソンの隣に腰かけてその元トレーナー(マーティン)のする話は、いかにも!な話なのだが、しかしその話を聞いて初めて笑顔を見せるディクソンがいい(涙)
その他、あらゆるやりとりが、情け容赦なく、トシのせいでゆるくなったこっちの涙腺を直撃してくる。
けれど、他の役者達がこの脚本で演じてこれどころでないクサさになってしまう可能性はある。そんな場合を勝手に想像してから改めてここでのスタローンや他の役者さん達の芝居をみていると、やっぱり押さえるところは押さえていて、抑えが効いていると思う。そしてこの現実離れした物語の主人公であるロッキーと、リアルに老いていくポーリー(バート・ヤング)やスパイダー達が、フィラデルフィアの街を背景に画面・物語のなかで不思議に共存している。
エイドリアン(タリア・シャイア)はロッキーの回想の中にだけ登場。けれど、そのことによってある意味、この物語全編にエイドリアンが存在している。
エイドリアンに先立たれて元気のなかったロッキーが、リトル・マリーと話したり散歩したりして楽しくしているのは、いいじゃないか。
亡くなった誰かのを代わりを、生きている人間が出来るわけじゃない。けれど、人はこうしてなんとか生きていくんだから。
そしてこの映画の本当の主人公は、このフィラデルフィアという街、そしてアメリカという国なのかもしれない。
これは大人のおとぎ話かもしれない。けれど時々、アメリアを馬鹿にして話を片付けてしまうよりも、自分自身が走り出さなきゃと思うのは、こういう映画を観たときだ。いつかこの世を去るとき、思い通りにならなかったことを人のせいにして腹を立てながら逝くよりも、誰かにありがとう、と言って逝けるほうがいい。それはアメリカだろうが日本だろうが同じじゃないか。