惑星ソラリス [VHS]
この映画は、人間の良心についての映画である。--ソラリスと言ふ惑星が有る。その惑星には、知性を持った海が有り、その海は、その星の調査にやって来た人間達に、それぞれが、良心の痛みとする物を物質化して見せると言ふ、驚くべき能力を持って居る。その為、そのソラリスの海を調査する為に、地球からやって来た科学者達は、ソラリス上空の宇宙ステーションで、それぞれの良心に関わる苦悩に悩まされ、科学的調査が中断されてしまって居た。そうした、宇宙ステーションの状況を調査する為に、ソラリス上空の宇宙ステーションを訪れた主人公は、そこで、自分自身が、かつて、自分が自殺に追いやった妻(の様な物)に出会ひ、自分も、良心の呵責に苦しむ。--この映画は、遠い未来においても、人類は、現代の我々が持つ精神的問題を持ち続けるであろうと言ふ予言である。即ち、いかに文明が発達しようとも、人間は、自殺した妻への良心の呵責(かしゃく)と言った問題から解放される事は無いだろうと言ふ、予言の作品なのである。(この映画の原作『ソラリスの陽の下で』を書いたスタニスワフ・レムは、ポーランドのカトリック教徒である。)その人間の良心の問題を描いた、この映画の始めの部分で、主人公が、知人と、広島について会話する場面が有る。--未来社会の人間達は、広島の事を、この様に想起するのだろうか?--私は、最近、ふと、この映画の、この場面を思ひ出す事が有った。深い映画である。この映画のテーマが人類にとって意味を失なふ日は、永遠に来ないだろう。
(西岡昌紀・内科医/広島と長崎に原爆が投下されて60年目の夏に)
砂漠の惑星 (ハヤカワ文庫 SF1566)
未知の惑星で遭難したロケットの捜索任務を持って出発した「無敵号」が遭遇する異星の敵との戦いの物語。
映画『ソラリス』で有名なスタニスワム・レムだが、逆を言うと『ソラリス』以外の作品は一般にはほとんど知られていないだろう。
(そもそも、ほとんど本屋で見かけないが)
最近亡くなったことで「SFマガジン」に追悼特集が組まれ、私も他の作品を読んでみるきっかけとなった。
その「砂漠の惑星」は、「ソラリス」同様、未知の生命との遭遇を扱った作品で、ストーリーを書いてしまうと面白くないのであえて書かないけれど、「ソラリス」の叙情的な気分と、J.P.ホーガンのハードSFの雰囲気の両面の面白さを持った作品なので、J.P.ホーガンを面白いと思う人にはお勧めの作品であった。
文章はえらく淡々としているが、戦闘シーンの描写を頭に描いてみると物凄いエネルギーが爆発している。個々のアクションはほとんど記述が無いけれど、エネルギーシールドで保護された無人の自動戦車が、反物質粒子兵器で無数の敵と持久戦をするシーンなんか、読み手がイメージできるなら、これは物凄い戦闘なわけで。
その壮絶な力のぶつかり合いの対極に、一人の人間の行動や「心」というものが対比される。
SFの世界では語りつくされたテーマなのかもしれないけれど、レムが
書くと、静謐感漂う世界が現れるのが面白いところ。
惑星ソラリス【字幕版】 [VHS]
ゆったりした雰囲気を残しつつSF的な修飾や冗長な描写を排し密度を高めたリメイク版。
セル版の冒頭に1分以上のプロモーションを加える20世紀FOXの販促手法には疑問を感じます。
作品を気に入った方でも毎回毎回レンタルのようなプロモーションを見せられるのが気になる方は、このリリースで修正されているか確認されるのを待った方が良いでしょう。
とりあえず、修正されることを期待し内容のみで評価します。
ソラリス (スタニスワフ・レム コレクション)
主人公に感情移入させてくれないレムの作品群は、物語を読むこととは別の次元を読者に要求する。『GOLEM 14』においてはるか人間の知能を超えてしまった人工知能は人間の知能とは別次元に行き、その知性に人間は触れることはできない。卑近なもので例えれば、高速で動く物体からは低速のものが止まったように見えるが低速のものにとっては高速の物体は細部まで認識することが難しい。そのような認識の不可知性をレムは様々な作品の中で示してきた。IQが180あったというレムにとってみても宇宙や物理の世界は認識できないことだらけであり、認識しても認識しても確実な知識が得られないことに突き当たる科学者レムにとって、想像の世界において描くべきことは、不可知その一点に尽きるのである。とすれば、人間の理性を超えた理性としての『ソラリス』は描かれるべくして描かれた存在であり、そこに挑んでは跳ね返される我々もまたレムを含めた知性の限界の想像として当然描かれる。想像力の限界を超える創造性を指向しないものは、恋愛にテーマを見、我々自身にテーマを見ることしかできない。だから、新訳において追加された惑星の、ストーリー上不要とも思える長い描写は、『ソラリス』の小説世界として必然であり、あれこそが知性としてのそして我々が認識できない存在としての『ソラリス』を、最も想像力を持って描いた部分である。だからこの描写を入れてこそ、この小説の訳として完成といえるのである。その意味で旧訳は単なるSF小説であって、新訳こそがレムの小説だといえるのだ。だが、もう一つ落とせない視点は、このような描写がレムの頭の中に繰り返し現れたことを想像させるという点である。というのも最後の長編『fiasko』において、その冒頭部分の『バーナムの森』が作者によってイメージされ書かれた後、その後のストーリーがなかなかできあがらなかったという事実がある。『バーナムの森』と『ソラリス』の描写はイメージとしてよく似ている。つまり不可知であり、十分に科学と経験によって危険を予想しているにもかかわらず、その当事者の人間を飲み込む。故に『バーナムの森』は『ソラリス』の後日譚であるとも言え、そこで作者の中のストーリーが止まってしまったことも十分に想像できるのだ。…続きは『fiasko』のレビューにて。