ジサツのための101の方法
これは超名作ゲームです!さよならを教(略)よりも好きです。
ストーリーは先が読めず、いろいろ場面が変わるので、プレイヤーを引き付けます。
狂気,電波,ギャグ,サバイバル等、ジャンル分けは無理です。
また、読み方によって、ストーリーの解釈が違います。
少ないBGM・CGで狂気を表現できるのは凄いです。
歌も最高で、中毒性があります。
このゲーム面白すぎです。
無双OROCHI 2 (通常版)(初回限定特典:王元姫&石田光成&妲己“サンタ”コスチューム同梱)
3/14追記
買うに当たって
・凄まじくキャラが多い、120人程使用可能
・キャラは多いものの、モーション被りがほとんど見受けられない点が非常に良い
・声優陣が豪華
・ゲームのメインであるストーリーモードのボリュームが非常に多い
・テンプレはあるものの、武器の属性を自由に取捨選択し、強化できる点
・経験値をストックでき、強キャラで稼ぎ、弱キャラを強化などといった事ができる点
・3人パーティを組む事で合体技や援護攻撃をかましたり、3人同時に育成することができたりとキャラクターの多さを生かしたシステム
・ロードは非常に快適
・難易度は意外と高い、ノーマルレベルでもヘタすると一部敵武将の無双乱舞が入ってしまうと即死してしまいかねない程。
・また、雑魚兵も棒立ちではなくガンガン割り込んで来る
・3人パーティだが、一人でも倒されてしまうと即ゲームオーバーなのでなかなか緊張感がある
・三國無双6などからすると、被ダメージがかなり激しいゲームだが、武器を育てると敵の体力を吸収し一瞬で全快できるような武器も作れてしまうのでバランスが結構とんがっている。
・コラボキャラクターが非常に多く、NINJA GAIDENのリュウハヤブサなど別ゲーだろこれ…と言った激しい動きをするキャラが多く楽しい。
・敵のワラワラ感が半端ない、また特に何も考えなくても普通に1000人斬りができる敵の多さで爽快感はかなりある
・コンボも非常に稼ぎやすく、1000ヒットオーバーもガンガン出せる
・爽快感の点は非常によいと感じた
・武器を売ることができなかったり、(余りだすといちいち捨てるハメに)武器ソートがなかったりとやや痒い所に手が届かないメニュー周り
(↑ 3/14 アップデート1.04で武器破棄機能追加!)
・キャラが非常に多いのもあり、ストーリーにほぼ出番の無いキャラが結構多い
・オンライン要素はもっと工夫が欲しい、ほんのオマケと言った程度の要素
・マルチプレイの同期は無双6よりは多少マシだがやはり共闘感が薄い
・ステージエディットの無双の戦場もエディットの幅が狭く、もっと工夫が欲しい
非常にボリュームがあり、キャラが使い切れないレベルの多さで新鮮味が長続きし、
無双系ゲームでよく聞く「飽きやすさ」がかなり良い感じで打破されていると感じた、モーション被りが殆ど見られないのも良い
シナリオが非常に多く、ストーリーをただ単にクリアするだけでも2〜30時間程
最高難易度の修羅はかなりの難易度で、装備やキャラを相当吟味して挑まないときついレベルでやりがいがある
DLCは今のところ無料の物や安価な物だけ
何よりも爽快感をまず先に考えて作ったようなゲームシステムとゲームバランスで、好きなキャラ選んで大暴れして下さいといった感じの作り。
おろち 2 (ビッグコミックススペシャル 楳図パーフェクション! 4)
【ネタばれあり】
対話中。言葉の端々に「優しい」言葉を挿入してくる者の心遣い・目配せを見るとき、いつも不快な気分とともに感じてきたことは、その「優しい」言葉の直接的な意味・メッセージそのものより、対話の自由を「優しさ」という線引きで抑圧し、舌先三寸の猫なで声で他人の感情を支配、瞞着しようとする傲慢で見え透いたその手管の方なのだった。優しさとは優しいと“思わせること”なのだといわんばかりの他人=言葉に対するこのタカの括り方は、つまるところ言葉の「意味」の波及効果から逆算された営業的言辞の同調を強いる心理的詐術、「ブラック会話術」「心理操作術」的カラクリ、あるいは「わたし“だけ”があなたの不幸をわかってあげられる(他の人にはわからない)」という隠微なメッセージで他人をコントロールしようとするカルト的勧誘の口上に過ぎない。相手の意識・欲望をつねに先回し管理しようとしながら、現在進行中のーーいま・ここで読まれつつある言葉・表情・身振り・音声・リズム・ノイズ・時間の流れなどの錯綜としてのーー対話がかみ合わないのは、結局自分の承認=欲望の延長でしか他人を捉えられないので、対話はやがてちぐはぐになり盛り上がりに欠け沈黙を埋めようと無駄な饒舌を浪費したあと、最後には「共通の話題がない」などという見当違いの結論へと導かれる。やたら他人に知識を教えたがるがそこに主観(観察)はなく、そのため感情の起伏や色調、奥行や細やかさに欠けており、実感のない紋切り型の感想とどこかで聞きかじり我有化した情報の羅列でカモフラージュしながら、なんとか自らの独自性を誇示しようと躍起になるが、そのくせ対話の相手である他人から学ぼうという気は毛頭ない自己中心性と優越意識。それが日常「優しい」と錯覚されているものの空虚な内実と消息である。(「優しさ」機能つきメンタルマッサージ高級家電?)。そもそも「優しい」意味を解さない者、承認しない者、同調しない者の前ではこのような不遜な態度はまったくの無力であり(テレビに映る楳図かずおの異物感への無力のように)、その「優しさ」に与かろうとしない者は端的に排除(ドメスティックな暴力)の対象となる。
こういったコミュニケーションにおけるヘーゲル=コジェーヴ的な承認論/欲望論のナルシスティックな「怪物」(ニーチェ)を、“美醜”というテーマ――母娘・姉妹のモデル=ライバル関係――に引き寄せて執拗に描いてきた楳図かずおは、対して優しさとは何かということを『おろち/秀才』の中で描いてみせる。
「心のやさしい人間に育ってほしい」という願いから“優”と名づけられた男の子。彼は赤ん坊のころ、自宅に侵入してきた強盗に刺された首の傷跡が原因でまわりの友だちに気味が悪いと疎んじられ孤独であった。そしてその事件以来、人が変わってしまった母親からは父親のように頭のよいえらい人になるようにと虐待にちかいやり方で勉強を強いられてきた。そのため”優“は、友だちはいなかったが勉強だけはできる少年へと成長していった。小学五年生になったある日、学校の図書室で勉強の下調べをしようと新聞の縮刷版を読んでいると偶然、例の強盗事件の記事につきあたった。そこに書かれていた記事の内容は”優“を驚かせるものだった。赤ん坊の”優“は強盗に刺された傷が原因ですぐに死んだというのだ。その日をさかいに“優”は人が変わったように自分から勉強するようになった。そしてついに目標だった父親と同じK大に合格する・・・・・・。
この物語はいっけん、強盗に赤ん坊を殺された母親の復讐の標的となった強盗の息子の“優”が勉強することで復讐しかえす物語であるように読める。しかし思い出してほしいのは次の場面だ。“優”が強盗事件の事実を知ったその足で強盗の住む家へ赴きそこにひとり住む女(産みの母親)に尋ねる。「この首に傷をつけたのはだれです!?こんなひどい傷をつけたのはだれです!?」
それを陰で見守るおろちは何十年ぶりかの涙を流して次のように言う。「でもわたしがなぜそのときそんなにかわいそうと思ったかだれもわからないだろう」
おろちが言う「だれもわからない」こととはいったい何か。“優”が赤ん坊の“優”ではなく、実は強盗の子どもであったという事実か。しかし物語を追ってみてばそれはだれにでも「わかる」ことだ。ちょうどこの物語に描かれる復讐の論理がコミュニケーションの「承認」の論理と同じであるように「わかる」。おろちが「かわいそう」と思うのは“優”が「あなたはわたしの本当の母親ですか」と“絶対に”問えないことにある。彼はこの復讐=承認の関係とはまったく別の場所で苦しんでいる。そしてその苦しみは物語が終わってみれば復讐=承認の物語から逆算できるように思えてしまうが実際は復讐=承認のロジックから見ていては「わからない」。「わからない」ことすらも「わからない」。なぜならこの苦しみへの問い「この首に傷をつけたのはだれです!?」とは「なぜわたしがわたしなのか」という存在論的な「深淵」そのものだからだ(*)。
物語の結末。復讐の事実が明らかになったとき母親はかつて幼い“優”の首に傷跡をつけたナイフを手にし彼に向かっていくものの抵抗された挙句自分からそのナイフに身体を投げる。
母親:「やっぱりあなたは殺人犯の血を引いているのね!!これで入学許可は取り消されるわ」優:「ば、ばかな!!」父親:「佳子!!」母親:「あなた!!ついに破滅の日が来たのよ!!」母親はナイフが刺さった腹の傷を抱えうずくまりながら殺された赤ん坊を想って泣き叫ぶ。「優!!わたしの優!!」
長い間、赤ん坊の死を苦んできたこの女の姿を見ながら“優”は自ら背負わされてきた苦しみを顧みず「おかあさんっ!!」といって女の苦しみの方へ寄り添う。優しさとはおそらくこのように厳しいもののはずであった。
(*)同様に誤解してはならないのは『洗礼』における《いびつな者は自分でそれを感じることができない/そしてそれを感じた者がいびつにされる!/狂った世界の中でただ一人狂わない者がいたとしたらはたしてどちらが狂っていると思うだろう?》という言葉は「いびつである/いびつでない」「狂っている/狂っていない」の認識論的な二項対立として読むのではなく、そのような超越論的立場/選択を不可能とする「ただ一人」という代理不可能な実存的立場から読まれるべきである(なぜ『赤んぼ少女』のタマミは「かわいそう」なのか?)。その延長に『わたしは真悟』の《奇跡は誰にでも一度おきる だがおきたことには誰も気がつかない》という言葉がある。この言葉はさとるとまりんが真悟の存在(奇跡)に気づかないという物語そのものの意味と、だれもがこの世に存在(奇跡)しているがだれもがその存在の意味についてはわからない(気がつかない)という意味がある。『わたしは真悟』はその逆算不可能/認識不可能な誕生「一度」の意味、「気がつかない」出来事性を、真悟=子どもの子ども(存在の起源/アイ)の物語として語っているのである。