豊臣秀長 下巻―ある補佐役の生涯 (PHP文庫 サ 7-2)
すぐれてサラリーマン向きの時代小説です。現代人向きに難しい表現は一切使わず、しかも信長の天才ぶりや秀吉の非凡さ、そして「主人公この人」豊臣秀長の傑出した補佐役ぶりを活写して余すところがありません。一気呵成に読了してしまえる面白き本です。
とはいえ、この時代の雰囲気を描き切れていないという難点も指摘できるのではないかと存知ます。たとえば、本書には秀長の私生活が全くと言ってよいほど何も記されていません。また、下巻に「秀吉・秀長兄弟ともに男色を好まなかった」といった趣旨の表記がありますが、その典拠は何でしょうか。秀吉に関しては徳川時代に書かれた一書に、そのような記述がありますが、それはいかにも低い身分出身の彼は衆道も解せなかった、といった侮蔑的な意味合いが込められていたかの如くに記憶して居ります。しかしながら、弟の秀長に関しては、私見の限り、同様の記録・文書類は無かったかと思います。
豊臣秀長―ある補佐役の生涯〈下〉 (文春文庫)
他の本では「秀吉の智謀」の一言で済まされてしまう羽柴軍の目覚ましい働きが、
どれほど辛苦に満ちたギリギリの作戦であったかが分かる。
巧妙な作戦にも地道な準備や忍耐力が要るのであって、
秀吉が決して魔法使いでないことが分かる。
秀吉とともに苦労し、耐え忍びながら実直に生き、功績は全て兄に譲った。
それが「この人」なのである。
特に筆者が経済人であることから、
文学系の作家に欠けている金銭的な視点が作中でよく生かされていると言える。
「この人」もまた裏方として金策に並々ならない苦労をした。
鳥取城の兵糧攻めで鳥取城近辺の兵糧を買い集めたときや、
高松城の水攻めでダムを作ったときなどは、えらくお金がかかったらしい。
それでも「この人」はよくそれをこなしたが、表立った評価はされなかった。
「この人」は常に地味で謹厳であった。
そのため、策謀をひけらかす黒田官兵衛が小賢しくて浅い男に見えたらしく、
この本では、官兵衛に対する「この人」の評価は、秀吉と違って冷淡になっている。
豊臣秀長―ある補佐役の生涯〈上〉 (文春文庫)
名補佐秀長を発見した境屋氏の名著だが、賤ヶ岳の合戦を「最後の苦闘」とし天下統一が完了した時点までしか筆が及んでいないので、その後の秀長の真の「最後の苦闘」について述べる。それは「征明」の問題である。海外出兵について家康や利家までが沈黙を決め込むなか、ひとり秀長だけが「暴挙」であるとして断固反対したのである。せっかく全国を制覇したのに海外出兵などとんでもない。今こそ内治を充実させ豊臣政権を安定させ、外には貿易を盛んにして富国の道を歩むべきである。恩賞の領地が足りないのなら自分の大和の所領を返上するから、それを分け与えればよいとまで言い切った。二人三脚で天下取りの道を歩んだ秀長にとり、無用な負担を強いる海外出兵など賛成できるはずがなかった。事実秀長存命のうちは秀吉は出兵できなかった。二度の朝鮮侵略の失敗のあと豊臣恩顧の武将らは文治派と武断派に分裂、各個家康に屠られた。名補佐秀長の予想は辛くも的中したのであった。